「正しい情報を伝えているのに、なぜ行動が変わらないんだろう…」
保健指導や面談をしていると、こんな壁にぶつかることがありますよね。
「塩分は控えてください」「運動してください」と伝えるたびに、相手はうなずいてくれる。でも次の健診でも数値は変わっていない。「私の指導、意味があるのかな…」と感じてしまう保健師さんも少なくないはずです。
実は、人間は「正しい情報があれば行動できる」生き物ではありません。
これは相手のやる気の問題でも、あなたの指導力の問題でもありません。人間の行動には、「理性」とは別の「感情・習慣・環境」が深く絡んでいるからです。
そのしくみを科学的に解き明かしてきたのが、行動経済学という学問です。
この記事では、行動経済学の基本から、保健活動の現場で今日から使えるナッジのテクニック、注意すべき倫理的な視点まで、保健師向けにわかりやすく解説します。
- 行動経済学とは何か、保健活動となぜ相性がいいのか
- ナッジ・デフォルト効果・損失回避など、現場で使える理論5選
- 特定保健指導・職場の健康イベント・面談での具体的な活用事例
- 倫理的に使うために知っておくべきこと
- さらに深く学びたい人へのおすすめ書籍
行動経済学とは?保健師が知っておきたい基本
行動経済学の定義
行動経済学とは、心理学と経済学を組み合わせた学問です。
従来の経済学は「人間は常に合理的に判断して行動する」という前提で成り立っていました。でも現実はどうでしょうか。
「夜食はやめようと思っていたのに、気づいたら食べていた」
「健診を受けようと毎年思うのに、気づいたら期限が過ぎていた」
こういった「わかっているのにできない」という人間の行動パターンを科学的に研究するのが、行動経済学です。
2002年にはダニエル・カーネマン氏が行動経済学的な研究でノーベル経済学賞を受賞し、2017年にはリチャード・セイラー氏が「ナッジ理論」でノーベル賞を受賞したことで、世界的に注目が高まりました。
「情報提供型指導」との違い
従来の保健指導は、いわば「情報提供型」のアプローチです。
| 情報提供型指導 | 行動経済学を活かした指導 | |
|---|---|---|
| 前提 | 情報があれば人は動く | 人は感情・環境・習慣で動く |
| アプローチ | 正しい知識を伝える | 行動しやすい環境・仕掛けをつくる |
| 対象 | 知識のなさ | バイアスや習慣 |
| 働きかける場所 | 「頭」 | 「頭と感情と環境」 |
情報提供型の指導が悪いわけではありません。ただ、それだけでは変わらない人が多いのも事実。
行動経済学は、そこを補う強力な視点を与えてくれます。
保健活動との親和性が高い理由
なぜ行動経済学が保健活動と相性がいいのか。
それは、保健師が向き合う課題そのものが「わかっているのにできない問題」だからです。
「運動した方がいいとわかっているけど続かない」
「健診は大事だとわかっているけど面倒で後回しにしてしまう」
「塩分を控えるべきとわかっているけど、つい濃い味のものを選んでしまう」
行動経済学は、こういった「人間らしい」行動パターンのしくみを解明し、強制や押しつけではなく、自然に良い選択ができるような設計を考えます。
これはまさに、保健師が日々の現場で求めているアプローチではないでしょうか。
保健活動で使える!行動経済学の理論5選

① ナッジ理論|そっと背中を押す仕掛け
「ナッジ(Nudge)」とは英語で「肘でそっと突く」という意味です。
強制や禁止ではなく、選択の自由を保ちながら、自然と良い行動をとりやすくなる仕掛けのことをナッジと呼びます。
有名な例として、オランダのアムステルダム・スキポール空港のトイレがあります。男性用小便器の中にハエの絵を描いたところ、清掃コストが大幅に削減されたという話です。「ここに向けよう」とは言っていないのに、人間は自然にそこを狙うようになりました。
保健活動でのナッジ活用例としては、以下のようなものが考えられます。

- 食堂のメニュー表で、野菜定食を一番上・一番見やすい場所に配置する
- 健診の案内メールを「申込期限まであと〇日」というカウントダウン形式にする
- 階段に「〇kcal消費できます」という表示を貼り、使いたくなる仕掛けをつくる
ポイントは「禁止・強制・批判しない」こと。選ぶのはあくまで本人です。
② デフォルト効果|初期設定を変えるだけで結果が変わる
「デフォルト(初期設定)」を変えるだけで、人の行動は大きく変わります。
人間は面倒なことを避けようとする生き物なので、「何もしなければそうなる」という設定に流れやすいという性質があります。
海外の研究では、臓器提供の意思確認方法を「提供する場合は申請(オプトイン)」から「提供しない場合は申請(オプトアウト)」に変えただけで、同意率が劇的に上昇したという例があります。
保健活動での活用例としては、以下のようなものがあります。
- 健康イベントの参加を「参加したい人が申し込む」→「参加しない人が申し込む」方式にする
- ストレスチェック後の面談を「希望者のみ」ではなく「全員に案内、不要な場合は辞退」にする
- 食堂でのトレーに最初から野菜料理を乗せておく(嫌なら戻せる状態で)
デフォルト効果は、「やらない理由がない」という状況をつくることで、参加や行動のハードルをぐっと下げてくれます。
③ 損失回避バイアス|「得をする」より「損を避ける」の方が強い動機になる
人間は「1万円得をする喜び」よりも「1万円失う痛み」の方を2〜2.5倍強く感じると言われています。これを損失回避バイアスと呼びます。
保健指導でよくある伝え方を見てみましょう。
ゲイン(利益)フレーム
「運動することで、血圧が下がって元気になれますよ」
ロス(損失)フレーム
「このまま運動しないと、血圧が上がって、脳梗塞のリスクが〇%上がります」
研究によると、ロスフレームの方が行動変容を促す効果が高いケースがあります。ただし、過度な恐怖訴求は逆効果になることもあるため、使い方には注意が必要です。
「このまま続けると〇年後に〇〇のリスクがありますが、今から少しずつ変えていくことで、そのリスクを下げることができます。一緒に考えてみませんか?」
損失への言及とポジティブな可能性を組み合わせることで、相手が防衛的にならずに話を受け取りやすくなります。
④ 現在バイアス|「今の自分」は将来より目先を優先してしまう
「将来の健康より、今の楽しさを優先してしまう」
これは意志の弱さではなく、人間に共通の認知特性です。
現在バイアスとは、将来の利益・損失よりも、目の前の利益・損失を実際より大きく感じてしまう傾向のことです。
「禁煙した方が将来は得だとわかっている。でも今のたばこが手放せない」
「運動は将来の健康に良いとわかっている。でも今日は疲れているし…」
これが積み重なるのが、生活習慣の改善が難しい本当の理由です。
現在バイアスへの対策として有効なのが、「即時の報酬・体験」を行動に結びつける設計です。
- 健康イベントに参加したらその場でプレゼント(すぐ嬉しい)
- 禁煙達成日数をアプリで可視化して毎日「達成感」を感じられるようにする
- 面談後に「今日気づいたこと」を書いてもらい、達成感を体験してもらう
将来の健康という遠い報酬より、「今日のちょっとした達成感」が行動継続のカギになります。
⑤ 社会的証明|「みんながやっている」が行動を後押しする
人間は周りの人がどう行動しているかを参考にしながら意思決定します。これを社会的証明と呼びます。
特に「どうしたらいいかわからない」「迷っている」という状況で、他者の行動は強力な判断材料になります。
- 「今年の健診受診率は〇〇%です。昨年より〇%上がりました」とお知らせする
- 「同年代の方の〇%が、すでにウォーキングを習慣にしています」という情報を伝える
- 面談で「同じ状況の方でも、こんな小さな工夫から始めた方がいます」と紹介する
ただし、社会的証明を使う際は数字の正確性が重要です。誇張や不正確な情報は信頼を失うもとになります。
現場で使える!シーン別の活用事例
特定保健指導での活用
特定保健指導でよくある場面:腹囲・血糖ともに引っかかっているが、「どうせ変わらない」という態度の方。
こういったケースで行動経済学的なアプローチを使うと、指導の受け取られ方が変わります。
損失フレームを使った健診結果の伝え方の工夫
NG例:「血糖値が少し高いですね。食事に気をつけてください。」
OK例:「この数値を放置すると、5年後に糖尿病になるリスクが〇%高くなります。一方で今から食事を少し見直すだけで、そのリスクをかなり下げられることがわかっています。まずできそうなことを一緒に考えてみませんか?」
社会的証明を使った動機づけ
「同じ年代・同じ数値帯の方でも、毎食後に10分歩くだけで数値が改善した方がいます。特別な運動をしなくても変化は出てくるんですよ。」
また、保健指導の目標設定でも行動経済学が使えます。
「1ヶ月後に体重を〇kg減らす」という遠い目標より、「今週からお昼だけ白ごはんを半分にしてみる」という今すぐ始められる小さな行動目標の方が、現在バイアスに対処しやすく継続しやすいです。
MIとの組み合わせポイント
行動経済学のテクニックは、動機づけ面接法(MI)と組み合わせることで効果が高まります。まず相手の「チェンジトーク」を引き出し(MI)、次に「では、どんな仕掛けがあればやりやすくなりますか?」とナッジのアイデアを一緒に考える、という流れが理想的です。
動機づけ面接法について詳しくはこちら➡︎【保健師向け】動機づけ面接法(MI)とは?基本から現場での使い方・具体例まで徹底解説
職場の健康イベントへの応用
職場の健康イベントでよくある悩みは、「参加者が集まらない」こと。
ここでデフォルト効果が有効です。
参加方法をオプトアウト方式に変える
従来:「参加したい方は〇月〇日までにメールで申し込んでください」
→変更後:「今年の健康イベントは全員参加を基本としています。ご都合の悪い方のみ〇月〇日までにご連絡ください」
強制はしていませんが、「参加するための行動」が不要になるため、参加率が大幅に上がります。
ナッジを使った啓発掲示物の工夫
廊下や階段に「〇階まで階段で上がると〇kcal!」という掲示を貼る。「エレベーターより階段を使おう!」という呼びかけより、行動のメリットを具体的に見せる方が、自然と行動を引き出しやすいです。
また、フィードバックの可視化も現在バイアスへの対策になります。
「今月の歩数ランキング」を部署内で共有するだけで、競争心と社会的証明が働き、歩くモチベーションが高まります。
健康相談・個別面談での活用
個別面談では、以下のような言葉の工夫が行動経済学のエッセンスです。
ゴールデンナッジフレーズ集
| 場面 | 使えるフレーズ | 使っている理論 |
|---|---|---|
| 食事改善 | 「今の食事から、一つだけ変えるとしたら何が変えやすそうですか?」 | 現在バイアス対策(小さく始める) |
| 運動習慣 | 「〇〇さんの職場の同僚の方でも、通勤時に一駅歩くだけで体重が落ちた方がいます」 | 社会的証明 |
| 健診受診率 | 「今年の受診率は90%です。残り10%の中にいることで、何かあったときに発見が遅れるリスクがあります」 | 損失フレーム+社会的証明 |
| メンタル面談 | 「相談に来てくれた方の多くが、来てよかったとおっしゃっています」 | 社会的証明 |
| 行動目標設定 | 「もし完璧にできなくてもいいとしたら、今週試してみられそうなことは何かありますか?」 | 現在バイアス対策(ハードルを下げる) |
行動経済学を使う際の注意点・倫理的配慮
行動経済学のテクニックは強力だからこそ、使い方に倫理的な配慮が必要です。
ナッジは「自由を奪わない」ことが前提
ナッジの定義の中に「選択の自由を保ちながら」というのが必ず入っています。
「参加しないと評価に影響する」などの強制や圧力はナッジではありません。あくまでも最終的に決めるのは相手本人という前提を守ることが大切です。
透明性を大切にする
「気づいたら誘導されていた」という状況はナッジの範囲を超えています。
特に職場では、「参加率を上げるためにデフォルト設定を変えました」と明示するなど、何をなぜやっているかを説明できる透明性が信頼の土台になります。
損失フレームは過剰な恐怖訴求にしない
「このままでは糖尿病になって死にますよ」のような脅し的な表現は、相手を防衛的にさせて逆効果になることがあります。
損失フレームは使うとしても、「リスクがある」という事実を伝えつつ、必ず「今から変えられる」というポジティブな可能性もセットで伝えることが重要です。
相手の自律性を尊重する
行動経済学の目的は「相手を動かす」ではなく、「相手が自分でより良い選択をしやすい環境をつくる」ことです。
保健師として、この視点を忘れないようにしましょう。
行動経済学をもっと深く学びたい人へ【おすすめ書籍】
「実践 行動経済学」リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン(著)
ノーベル賞受賞者・セイラー氏が書いたナッジ理論のバイブル的一冊。
ナッジという言葉の生みの親が書いた本だけあって、具体的な政策事例も豊富です。保健活動のヒントにもなる視点が随所に出てきます。
世界最先端の研究が教える新事実 行動経済学BEST100 橋本之克(著)
短編なので、本を読むのが苦手な人には読みやすいです。
人の不思議な行動を、行動経済学の研究、施策、実例、エピソードなど100以上を織り込みながら解説しています。
「行動経済学の使い方」大竹文雄(著)
日本の研究者が書いた、日本の医療・公衆衛生の文脈で読みやすい一冊。
禁煙支援や健診受診率向上の文脈でも触れられており、保健師の業務と直結した内容が多いです。
よくある質問(FAQ)
まとめ|「伝え方」と「仕掛け」を変えるだけで、保健活動は変わる
今回ご紹介した内容を整理します。
- 行動経済学は「情報だけでは人は動かない」という現実に向き合った学問
- ナッジ・デフォルト効果・損失回避・現在バイアス・社会的証明が現場で使いやすい理論
- 特定保健指導・職場の健康イベント・個別面談、どのシーンでも応用できる
- 倫理的な使い方として「自由を守る・透明性・恐怖訴求に頼らない」が大切
何よりお伝えしたいのは、「相手を動かそうと頑張るより、動きやすい環境を整える方が楽で効果的」ということです。
保健師として、正しい情報を届けることはもちろん大切です。でも、その情報がきちんと届いて、相手が「動いてみよう」と思えるかどうかは、どう伝えるか・どんな仕掛けをつくるかにかかっています。
行動経済学は、そのための強力な武器になります。まずは「損失フレームで一言変えてみる」「案内のデフォルトを変えてみる」、その小さな一歩から試してみてください。


